

仕事帰り、駅前のカフェの前で足を止めたとき。
不意に聞き覚えのある声が耳に届いた。
「……あれ? もしかして○○?」
振り向いた瞬間、そこに立っていたのは昔の彼氏だった。
大学時代、私のすべてを知っている人。
何度も一緒に過ごし、抱き合った夜の記憶を共有している人。
時間が一気に巻き戻されたような感覚。
心臓が跳ね上がり、言葉が喉に詰まる。
「ひさしぶり……」
ようやく出てきた声は、驚くほど震えていた。
「元気にしてた?」
彼は昔と同じトーンで問いかけてくる。
ただそれだけの言葉なのに、私の中で何かが揺れた。
あの低く落ち着いた声。
夜、耳元で囁かれたときと同じ響き。
——だめ。思い出しちゃ。
そう思えば思うほど、身体は勝手に反応してしまう。
背中をなぞられた感覚。
重なった吐息。
シーツに沈んだ体温。
それらが一気に蘇ってきて、足元がぐらつく。
「せっかくだし、ちょっとお茶でもしない?」
彼の提案に断る理由が見つからなかった。
小さなテーブルを挟んで向かい合う。
目の前の彼は少し大人びて、落ち着いた雰囲気をまとっていた。
「変わってないな」
彼がそう言って笑うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
コーヒーカップを持ち上げる彼の手。
その指先を見ただけで、あの夜に触れられた感覚が蘇ってしまう。
——私の身体、どうしてこんなに覚えてるの?
「仕事、大変?」
「うん、忙しいけど楽しいよ」
何気ない会話を交わしながらも、私の頭の中は別の世界にいた。
彼の声を聞くたび、身体の奥が熱を帯びる。
視線が重なるたび、あの夜の姿勢や息遣いが頭をよぎる。
——もし今、テーブルの下で手を重ねられたら?
——もしここで耳元に名前を囁かれたら?
想像するだけで呼吸が浅くなる。
頬が赤くなるのを隠すようにカップを口に運ぶ。
「顔、赤いけど大丈夫?」
彼に指摘されて、心臓が飛び出しそうになった。
店を出て並んで歩く。
夜風が頬を撫でるたび、彼の隣にいる自分を意識する。
すれ違う人の波の中で、腕がかすかに触れそうになる。
その瞬間、皮膚の下まで電流が走ったように熱くなる。
触れてはいない。
でも、確かに触れられた錯覚に包まれて、身体が震えた。
「寒くない?」
彼がふと声をかける。
その低い響きに、背筋がぞくりとした。
——この声に、何度も乱されたんだ。
「また連絡するよ」
そう言って彼は笑った。
ただそれだけなのに、私の中に火が灯った。
——もし次に会ったとき、彼が手を伸ばしてきたら?
——もし飲み会の帰り、二人きりになったら?
——もし、また名前を呼ばれたら?
理性が「だめ」と叫ぶ。
けれど、身体は正直だった。
胸が熱くなり、足取りが落ち着かない。
帰宅してベッドに横たわると、妄想が止まらなくなる。
目を閉じると、彼の声がすぐそこにある。
「大丈夫?」と囁かれるだけで、身体が反応してしまう。
耳元にかかる息。
背中をなぞる手の感触。
熱を帯びた吐息と、重なる鼓動。
——まるで、あの夜に戻ってしまったみたい。
シーツを握りしめながら、思い出す。
別れたはずなのに、心も身体も、彼に支配されていた時間。
「……っ」
息を殺して目を開けても、彼の声は消えない。
再会して数時間しか経っていないのに、身体はもうあの頃に戻ってしまっていた。
忘れたはずの夜。
封じ込めた記憶。
——昔の彼氏の声を聞いた瞬間、身体があの頃を覚えていた。