

その日は一人旅の午後だった。
人気の観光地とは少し離れた、落ち着いた港町を散策していた。
潮の香り、潮騒の音、知らない土地の空気。
日常から切り離されたような感覚が、私を大胆にさせていた。
「旅行先だから、誰も私を知らない」
その安心感が、普段の私なら絶対にしない行動へと背中を押した。
ベンチに腰掛けて港を眺めていると、隣にスーツ姿の男性が座った。
40代くらいだろうか。少し疲れた雰囲気だけど、落ち着きのある大人の男性。
普通なら気にせず立ち去るはずだった。
でも、そのときの私は違った。
「お仕事でいらしてるんですか?」
気づけば、自分から声をかけていた。
その瞬間――“どうして私、こんなことを?”と自分に驚いていた。
男性は少し驚いたように振り返ったが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「いや、ちょっと休暇でね」
そこから会話が始まった。
旅先のおすすめスポット、海の景色、偶然立ち寄ったカフェの話。
彼の声は落ち着いていて、言葉の端々から大人の余裕が感じられる。
気づけば、私は学生のように胸を高鳴らせていた。
ほんのささいな会話なのに――
なぜか“女として”見られているような気がしてしまった。
笑い合ったあと、ふと沈黙が訪れる。
潮風が髪を揺らし、そのとき彼の視線が私の胸元に落ちたような気がした。
(え、今…見られた?)
旅先の解放感のせいか、心臓が跳ね上がる。
そして、頭の中には勝手に“もしも”の妄想が膨らんでいった。
――もし、このまま一緒にカフェに入ったら?
――もし、「少し散歩しませんか」と誘われたら?
――もし、夜景の見える場所で肩を抱かれたら?
「だめ、考えすぎ…」
そう分かっていても、想像は止められなかった。
やがて彼は「そろそろ行くよ」と立ち上がった。
「旅を楽しんでね」
その言葉を残して、軽く会釈して去っていった。
何も起きなかった。
ただ少し話しただけ。
でも、私の心の中には熱が残っていた。
自分から声をかけてしまった驚きと、彼の存在がもたらした妙な高揚感。
「旅行先だから…」と自分に言い訳をしながらも、
あの午後の出来事を思い出すたび、胸のざわめきは再び蘇るのだった。