

社内で「しっかり者の先輩」として見られることには、もう慣れていた。
名前は滝沢 美咲(たきざわ みさき)。
入社8年目。結婚して3年目。
同僚との付き合いもほどほどに、派手すぎず、真面目すぎず──
“できる先輩”というポジションを、無意識のうちに演じていたのかもしれない。
けれど、彼が配属されてきた日。
その日から、少しずつ心が軋む音が聞こえはじめた。
春の空気は、どこか新しい香りがする。
異動の季節。私の部署にも、新しいメンバーが加わった。
「高橋くんです。2年目で異動してきました。今日からよろしくお願いします」
上司に紹介されたその青年は、まだ緊張が抜けきらない顔で、それでもまっすぐに私を見た。
「あ……滝沢さん、ですよね? 社内報で見たことあります」
「え? あ、ありがとう……ございます?」
思わず笑ってしまった。
社内報なんて、誰も読んでないと思っていたから。
けれど、彼は違った。
最初の会話から、妙に記憶に残る後輩だった。
年下の男性と仕事をするのは、別に珍しくない。
けれど彼──高橋くんは、どこか“真っ直ぐすぎて危うい”。
私の言葉を真正面から受け止めて、素直に頷き、真剣にメモを取る。
その姿が、微笑ましくて、時々ちょっと“可愛い”とすら思ってしまった。
「そんなに真面目に見られると、照れるなぁ」
そう言うと、彼はほんのりと赤くなって、目を逸らす。
ああ、この子、ほんとに私を“女性”として見てるんだなって──
その時、確信してしまった。
私は人妻だ。
薬指の指輪が、その事実を毎日思い出させてくれる。
夫とは、悪い関係じゃない。
でも、どこか淡々としている。
会話も、食事も、夜の営みも──“形”だけ。
気づけば私は、夫よりも後輩の彼の言葉や視線に、胸が高鳴るようになっていた。
「滝沢さん、今日の服……すごく似合ってます」
「えっ、ほんと? ありがとう」
そんな他愛もない一言が、なぜか嬉しい。
そのたびに、心の中でブレーキをかける。
人妻でしょう? 先輩でしょう?
でも──
理性が止めても、感情が追い越していく瞬間が増えていった。
その夜、彼とふたりきりで残業することになった。
オフィスの照明が少し落ちて、外はもう真っ暗。
デスクの間を歩く音が、やけに大きく響く。
「高橋くん、お疲れさま。……コーヒー淹れたから、少し休憩しよ?」
彼の机にカップを置くと、驚いたようにこちらを見た。
「……ありがとうございます。滝沢さん、いつも気遣ってくれて」
「ふふ、そんな大げさな。
……でも、君は頑張ってると思う。見てて分かるよ」
そのとき、自分の声が少し甘くなっていたことに気づいていた。
でも止めなかった。
たぶん、止めたくなかった。
ただふたりで、コーヒーを飲む時間。
けれど、沈黙が妙に苦しくて、心地よくて──
それが怖かった。
週末、偶然すれ違った帰り道。
誘ったのは、私の方だった。
「この近くに、雰囲気のいいカフェがあるの。もしよかったら、寄っていかない?」
自分からそんなことを言うなんて、らしくなかった。
でも、もう少しだけ“彼と一緒の時間”が欲しかった。
窓辺の席。
カフェラテ。
落ち着いたBGM。
ふとした会話の中で、彼が真剣な目で問いかけてきた。
「滝沢さんって……今、幸せですか?」
不意打ちだった。
でも、嘘をつくことはできなかった。
「……正直、わからないの。
“幸せ”って何か、もう分からなくなってるのかも」
彼は黙って、ただ頷いた。
「もし、私が“人妻じゃなかったら”って仮定の話をしたら……怒る?」
「怒りません」
その返事を聞いて、つい、テーブルの下で彼の指先にそっと触れてしまった。
ほんの一瞬。
でもその瞬間、自分が一線を越える“手前”まで来てしまったと理解していた。
私たちの関係は、まだ何も始まっていない。
でも、“何かが動き始めた”のは確かだった。
会社では、相変わらずの先輩と後輩。
他人の目から見れば、何の変哲もない関係。
けれど、私たちは知っている。
視線が合うたびに、何かが熱を帯びていくことを。
ふとした瞬間に、言葉よりも心が近づいていることを。
人妻としての理性と、ひとりの女としての感情。
その狭間で揺れる私の心は、今、彼の一言、彼の仕草、彼の優しさに揺さぶられている。
もしかしたら、これは“恋”ではないのかもしれない。
でも──
もし彼が手を伸ばしたら。
私がその手を、取ってしまったら──
そのとき、私はもう“先輩”ではいられない。